2012年12月31日

「50分の1」書評法

年初に「今年は書評を50本書くぞ」と宣言して、無事達成。自分に課した頭の筋トレだったけど、意識して1年やると自分なりの書評スタイルが確立できたので、それらをメモがてら記しておきます。

○書評する数は年間50本。
50という数字は、なんとなく決めたけれど、これが絶妙な数だったと思う。50本といえば、1年が52週だから盆休みと正月休みを休みにすれば、週に1本書けばいい。この週に1本というのが、楽過ぎず、辛過ぎず、本当に書きたいものだけを選べるペースだった。以前、毎週、週刊誌評をやるという課題にも挑戦したけど、あのときは、書くことがないときにも書かねばならぬ辛さがあったが、今回はそういう面で楽だった。
 あと大事だと思ったのは、最初の記事のタイトルに(書評2013年 1/50)と、書いてしまうこと。この「1/50」という設定が、かなり次も書こうという原動力になりました。

○書評とは何かを見定める
これはけっこう大事で、いろんな解釈があると思うけれど、僕のなかでは「おすすめする理由」を書くということだった。こう定めたことで、書くのがだいぶ楽になった。ただ「面白い!とにかく面白い!」と書いても、伝わらないし、その評論は面白くない。そこで、具体的に何を書くかといえば、「僕はこの本を読んでこう変わった」を書いた。ものの見方が変わったでも、知識が増えたでも、背筋が伸びたでも、カツ丼がうまく作れるようになったでもいい。なんでもいいのだけど、僕がこう変わったという報告がいちばん興味をもってもらえると思った。

○書評しやすい本を選ぶ
「この本を読んでこう変わったよ」。僕は、これが書評であっていいと思うのだけど、実はそういう本は、選ぶときから意識しないと出会えない。「なんか面白そうだな」と手にとった小説を読んで、それがとても面白くても、具体的に自分どう変わったのかは、なかなか書けないと思う。そう、小説の書評というのは、実はいちばん難しいと僕は思うのです。なんとなく、小学生ぐらいから読書感想文といえば、小説というか物語を読んで書くけど、その良さはなかなか文章にしづらい。その良さは、そんなすぐに表現できないものだと思う。だから、ブログで書評を書く場合、小説をメインにしないほうがいいと思った。
 書きやすいのは、新書だと思う。手軽に読めてテーマが明確なので、自分がなぜその本を手にとったのかも明確にしやすい。だから、その本から得たエッセンスを端的に書きやすい。あと、今年は健康本をたくさん読んだけれど、これも書きやすい。健康本は、問題と対処で構成されているので、その対処がどう自分を変えたのを書きやすい。この構造は、ビジネス書も同じだね。ブログでビジネス書の書評を書いている人が多いのは一種の必然なのだろうと思う。
 あと、ブログで書きやすい本を見つけるために欠かせないのが問題意識だと思う。「こうしたい」「ああしたい」という悩みや問題意識があって、それに対する回答を示してくれるであろう本を手にするのが、書評足り得る本を見つける上でいちばんの近道だった。

○ブログで書評する意義を知る
 ブログで書評を書く良さは、本が素通り≠オていかず、自分の財産になることがやはり大きかった。本を読んで何を得たかをまとめると、本がしっかりと残ってくれる。
 そしてそうして書きためたものは、他者と本を出会わせるし、本の作者への応援にもなるのがいいね。
 今年50本の書評を書き終わってできあがったスタイルはこんな感じでしょうか。
 こんな僕のブログ書評法は、名付けて《「50分の1」書評法》。来年もやるので、興味のある方はいっしょにやりましょう。本を読む力も上がるし、本から得られる知識が活きる感覚も上がると思います。もちろん週に1本というのは、誰にとっても楽ではないと思うけれど、週に1本くらい書かないと、負荷にならないし、週に1本書けないのは、そもそも読書法から見直したほうがいいので、がんばって50を目指していきましょう。
 では、そんなわけで来年もみなさんにとって良き年となりますように。
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2012年12月28日

『教科書に載った小説』(書評2012 50/50)

文庫版の帯にあった
《「面+白い」とは、こういうことか。》
というコピーに引かれて買った一冊。

タイトル通り、教科書に載った短編が12作品収められたアンソロジー。編者は佐藤雅彦さん。収録作品は以下。

1 とんかつ…………三浦哲朗
2 出口入口…………永井龍男
3 絵本………………松下竜一
4 ある夜……………広津和郎
5 少年の夏…………吉村 昭
6 形…………………菊池 寛
7 良識派……………安部公房
8 父の列車…………吉村 康
9 竹生島の老僧、水練のこと………古今著聞集
10 蠅…………………横光利一
11 ベンチ……………リヒター/上田真而子 訳
12 雛…………………芥川龍之介

全編読んだ感想だけど、これがとても面白かった。アンソロジーって、ミステリー限定とか、作家のお気に入りとかあると、お得感からか色々買うのだけど、なかなか読むきっかけもなく、読んでも一編とかになりがち。でも、本作は、「教科書に載っていた」という仕掛けが「なぜ教科書に載ったのか?」と考えさせてくれて、楽しく最後まで読めた。佐藤さんは、教科書に載った理由として「誰かが通過させたかった小説」としていた。たしかに教科書に載るってことは、子どもたちの心を通過させたかったんだろうな。そう、教科書に載ると、ついつい「語句の意味」とか「指示代名詞が指すもの」といった観点で接してしまうけど、ちゃんと小説として捉えるべきだよね。「まず小説として自由に楽しんで読もう」。こんな教育であって欲しいな。

もうひとつ気になっていた「面+白い」とはこういうことの回答として、佐藤さんは、目の前がパッと白くなる感じがすると、書いていた。
確かに面白い小説、とくに短編には、「そうだったのか!」と、はっとさせるものがある。そのパッと白く視界が開ける感覚を能動的に体感できるのが、面白い小説なのかもしれないな。

小説は、読み終わっても、つい「あー。面白かった」で終わってしまうけど、こういった仕掛けのあるアンソロジーは、最後に立ち止まって考えられるのがいいね。こういうタイプのアンソロジー、また出会ったら読みたいと思った。あと、これから子どもたちが国語の教科書をもらってきたら、ひとまず僕も読んでみたいと思った。そして、その中の面白さを子どもと共有したいな。教科書に載っている小説は面白んだぞ。そんなことを子どもに伝えられる意識を持てた面でも、いい本でした。

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2012年12月27日

『食の職』(書評2012 49/50)

 JR新宿駅の地下に「BERG!」(ベルク)というお店がある。朝からビールを飲む人が当たり前のようにいるスタンド形式のお店で、とても広いとはいえない店内はいつもごった煮状態で込んでいる。タバコの煙もモウモウ気味でとても居心地がいいとはいえない店なのですが、僕はここが大好き。その理由は、味です。パンもソーセージもコーヒーもビールも、味が濃く、深く、優しい。とても美味しいのです。新宿の地下。雑多な店内。そこで味わえる美味しい料理。このギャップがたまらなく、もう10年近く通っています。

この本は、このベルクの副店長さんが書いたもの。なじみ深い店の本だったけど、いろんな発見があった。

まず、この店のコーヒーや、ソーセージ、パンは、このベルクのものではないということを初めて知った。ベルクでは、貼り紙などで「うちの職人」といったフレーズを使っていたので、これらはベルクが作っているものだと思っていた。しかし、実際は、ベルクといろんな縁でつながった職人さん(彼らは独立した店主である)がベルクに卸している。

僕は、この事実に、ちょっと感動したのです。というのは、仕事の有り様が、編集の仕事と似ているなぁと思ったので。自分たちが天才的な職人にならずとも、そういった人とつながり、信用し合うことで、自分の店で天才的職人の仕事を出すことができる。

この迫川さんという副店長さんは、この部分を楽しんでいるのがよかった。大手のチェーンに加われば、仕入れの部分で苦労することはまったくない。あらかじめ用意された仕入れ先からただ食材を入れれば終わる。これは楽。でも、自分でつながり、信用し、そこから仕入れすることから得られるダイナミズムとは、ほど遠い。この職人さんとのつながりを、とても誇りにしていて、楽しんでいる姿勢が僕は好きだ。僕も編集をしていたとき、ここをいちばん大事にしていた。著者の方などを、自分で探して、自分でお願いして、自分で原稿をもらって、本を作っていた。ここになんともいえない楽しさがあった。ベルクも同じだったんだな。それが嬉しかった。

 あと、この本で驚いたのが、この迫川さんの味の表現方法。
 毎日仕入れるビールの味見をしていると、その味が変わってくることがある。それをメーカーの営業に伝えると、最初は口を揃えて「いつもと同じです」と返す。しかし、迫川さんは、その味を絵にして伝えるのです。

 どんな絵なのかは、実際にこの本を手にとって見てもらいたいのですが、記事中にあるスケッチには、それまでは卵形だった味が、矢印の形に尖り、今はアメーバーのようにダレダレになっていると描かれている。この絵が、なんかとてもイメージしやすいもので、実際、この絵をメーカー担当者に見せながら飲むと「たしかに違う」と、ちゃんと伝わるのだという。

《食において、わたしの興味の中心は「味」にあります。それは味わったときの情景とともに思い出されるのですが、わたしの場合、味を色や形で(つまり視覚で)覚えているのです。その味を味わっているときに、色や形に置き換えるわけではありません。色や形として味わっているのです。おそらく、舌の細胞レベルで起きていることが味覚化されるだけでなく視覚化されるのかも?》

こんな文章があるのですが、面白いな。「味が視覚化される」。この発想だけでも、この本は実にスリリングなのでした。

本書の主体は、ベルクの職人さんへのインタビューとなっているのですが、僕はこの迫川さんの考え方や感性が面白かった。食を文化として捉える考え方も新鮮だった。

《表現の世界のあらゆるものが「商品(オリジナル)」化するなかで、料理だけが辛うじてまだ誰のものでもなく、誰のものでもあるという文化本来の姿をとどめているのではないでしょうか》

この表現にも感嘆したなぁ。僕は、食の本をいろいろ乱読してきたけど、実にオリジナル足り得えている素晴らしい本。また、ベルクにも行きたくなる大変な良書でした。

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2012年12月23日

『インフルエンザと闘うな! ワクチン・タミフルより「ぬれマスク」』(書評2012 48/50)

農文協が出している『うかたま』という雑誌を、もう何年も定期購読している。食を中心に伝統的な生活の知恵を上手に教えてくれる上、雑誌の作りが素晴らしいのです。情報源はレアだし、企画は独創的だし、レイアウトも可愛い。そんな季刊誌が年に4回、家に送られてくるのを楽しみにしてるのですが、この冬号の第二特集「風邪の手当て」が、これまたよかった。

「風邪とは何か?」から始まり、現代西洋医学ではあまり語られない風邪の対処法がいろいろ載っている。「風邪に葛根湯は正しいか?」というコラムには近年は葛根湯タイプの風邪が減っているとあった。葛根湯は、体温を上げる漢方だけど、温度管理がされた現代家屋では、体温低下の風邪よりも、のどが痛いなどの炎症タイプの風邪が多い。これには、同じ漢方薬でも「銀翹散(ぎんぎょうさん)」のほうが効くという。なるほど。

この特集で、一番興味をもったのは、「インフルエンザの予防接種は必要?」という問いに答えていた、臼田さんというお医者さんのお話。この先生は、インフルエンザの予防接種は必要ないという立場で、そもそも予防接種を勧めるのは国をあげての薬ビジネスの影響だという。そしてインフルエンザは、体内に入ってもあまり悪さができないようにするのがいいのと説く。
そのために必要なこととして、以下の3点を挙げていた。

1 夜、寝ている間に予防する。副交感神経が優勢な就寝中に、発熱や炎症が悪化しやすくなります。
2 口呼吸をやめ鼻呼吸を心がける。鼻の奥まで新鮮な空気が行き渡ることで、感染しやすい上気道で交感神経の働きを促進し、適切な免疫反応に導きます。
3 のどを保護する。口呼吸をしていると朝にはのどはカラカラで、炎症の拡大など症状の悪化につながります。

こうした条件を実現できるのが、濡らしたマスクをかけて寝る「ぬれマスク法」なんだとか。

「ほぉ」と、この話に興味をもったので、臼田さんの著書『インフルエンザと闘うな! ワクチン・タミフルより「ぬれマスク」』を読んでみた。

すると、こんなことが書いてあった。この臼田さんは、「風邪にいつ気付いたか?」というアンケートを患者さんに行ない「多くの人が朝に気付く」という発見をしたという。そこから、上記のようななぜ睡眠中に風邪が進行するのか。そのためには、どうすればいいのかを考えたそうだ。

たしかに朝、起きたときに風邪を感じることは多い。「あしたの朝、起きたとき喉が痛いといやだな」と思いながら寝たことも幾度もある。このようになかなか説得力があるので、僕もやってみることにした。

そのときたまたま喉が痛かったので、この本に載っていたぬれマスクのやり方(ガーゼのマスクを用意して、三分の一をぬらしてその部分を折り返してそのぬれた部分が鼻の穴の下にくるように装着する)を参考にして寝た。
ちょっと違和感はあるんだけど、たしかにこれだと寝ている間、ずっとのどに湿気を送ることができそう。口を開けて寝ることも防げそうで、なかなかよい。
結果、今回は、僕の喉が夜中に進行することはなかった。一回だけなので「ぬれマスク」の効能が万全なのかはわからないけれど、とりあえずこの冬は、この方法で風邪に対処してみようと思っています。
やはり、この「ぬれマスク」のように、安価で簡単にでき、誰もが感じる体の異変に素直に対処しているものはいいね。人間の体は複雑神秘だけれど、人間ができることは、やはりシンプルなことが結局は効果的なんだろうなというのが、ここ一年こういった健康本を読みまくって得た僕なりの知見なのでした。

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2012年12月15日

『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(書評2012 47/50)

「傑作」と評したい実に素晴らしい評論でした。これから評論を書く人は、これをひとつの手本にしてもらいたいと思えるほどの完成度。その素晴らしさの一端は、まず読者の興味をそそる「味のある情報」でしょう。

《山田風太郎は二十五歳くらいでプロになったといえますから、六十九歳までだいたい四十年以上を第一線の作家としてすごしました。これは、いかに彼の才能に「体力」があったかという実証なのですが、山田風太郎にいわせると、自分は手品のようになにもないところから「嘘」をひねり出してきたわけで、純文学みたいに身を削りながら書いているわけではないから、死ぬまで書けるだろうと思っていたそうです。しかし六十九歳でぱたっと止まったのは意外だった、といいます。》

《『竜馬がゆく』は四年間にもわたる長編です。同時に『週刊文春』に『燃えよ剣』も連載する。『新選組血風録』を書いている途中に、おなじ新選組ものの『燃えよ剣』も書いたということです。短編集『真説宮本武蔵』を出したのも六二年です。まさにスーパーマンといえます。多作な流行作家で作品の質を落とさなかった人はほとんどいませんが、彼は例外でした。》

山田風太郎の<才能に体力がある>という記述も新鮮だけど、『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』が同時に執筆されていたなんて知らなかったなぁ。
本書は、山本周五郎、吉川英治、司馬遼太郎、藤沢周平、山田風太郎といった人物を柱に展開されているのだけど、彼らが何に立脚して、どのように時代小説を書いたのかが、とてもわかりやすく書かれている。これらは「時代小説とは何か?」というぼんやりした命題に、心地よい輪郭をくれるのです。

それで、この本の見所は、作者・関川さんのこんな評でしょうか。

《時代小説『蝉しぐれ』はきわめて洗練されたおとぎ話だともいえます。友情と名誉、恥、約束、命のやりとり、忍ぶ恋、そういうものは、命のやりとりを除いて現実に私たちの生活のなかにあります。たしかにおとぎ話ですけれども、根も葉もあるおとぎ話です。義理や人情は現実にいまでも私たちの原理として生活を律しているのに、なぜか現代文学では扱いません。そして不思議なことに、それを扱ったら恥ずかしくて読めないものになってしまう。やはり、「人間は不純である」したがって「私も不純である」という現実認識や、「不純であってなぜ悪い」という居直りが現代文学の背骨をつらぬいているからでしょうか。しかし時代小説になるとなぜか恥ずかしくなくなる。この謎はきちんと解かれてしかるべきだと思います。》

なるほど。時代小説は「根も葉もある、おとぎ話」というのは、的を射た表現。そして、なぜ現代の文学では、義理や人情が主体となる話が、あまり受け入れられないのかというのも、なるほどなぁと思わせる。歴史小説と現代小説というのが、純然たる対立構造で語られるものではないけれど、やはり現代小説にないものを、人は時代小説に求めているんだろうな。いろいろ考えさせてくれる。

この本の最後、関川さんは時代小説を親しむようになって感じたこととして、こんなことを挙げていてすごく共感した。
《江戸時代や明治初期が「遅れている」のではなく、ただ「不便である」にすぎないとも知りました。不便さは不自由さをもたらします。しかし不自由さは人間の精神を鍛えます。自分が体験したさして長くない歴史をかえりみても、それはわかります。ひるがえって、「便利さ」は人間になにをもたらしてきたのかという問いにつきあたり、唖然としました。「進歩」した世の中で、人間そのものはちっとも「進歩」していないのです。むしろ「退歩」しているのです。(中略)この本のタイトルは、『おじさんはなぜ時代小説が好きか』としました。おじさんと時代小説の相性のよさは、たしかに「保守化」と関係があるでしょう。しかしその根底には「人間は進歩しない」という経験的確信があります。生活は便利さを刻々と増すが、それは人間の質や幸福感の向上とはなんら関係がない、という苦い認識です》

僕も仕事で歴史の本を作るようになって、初めてこういった「歴史の豊かさ」に気付いた。このとてもシンプルだけど大切な認識が、多くの人に広まっていくといいなぁと、僕は思うのです。

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2012年12月06日

『嘘だらけの日米近現代史』(書評2012 46/50)

若き憲政史研究家による、実に痛快かつわかりやすい日米近代史の書。その痛快さは、こんな冒頭の文言からわかるでしょうか。

《ロシアの教科書には「日本は十九世紀まで世界史に登場しない国」と書かれていますが、だからどうしたというのでしょうか。「その通りです」とでも答えておけばいいでしょう。そもそも「世界史」とはヨーロッパ人の世界観で語られた歴史です。宗教弾圧と侵略戦争で彩られたヨーロッパの歴史がそんなに立派なのでしょうか。ヨーロッパ人が「大航海時代」と称して有色人種を殺戮や侵略しなければ、それこそ世界はどれほど平和だったか。そんなくだらない歴史と関わり合いのないことを日本人として誇りに思います。》

実にごもっとも。それで、こんな感じで通説をバッサバッサと斬りまくるのですが、印象的だったのは「幕末の日本は、アメリカという組みやすい相手を選んで条約を結んだ」というお話でした。

《英露が日本に不平等条約を求めて来たとき、日本はどちらについても不利なので、最初にアメリカと締結します。安政の不平等条約です。もしアメリカというちょうどいい相手がいなければ、日本は英露のどちらかと最初に条約を結ばざるをえず、どちらかの植民地にされていたでしょう。》

最後の「植民地にされた」というのは、なんか納得しかねる部分もあるけど、たしかにアメリカが「いい相手だった」というのは、頷く部分もある。そして、この後、太平洋戦争まで、日本とアメリカは蜜月関係にあったとするんだけど、それもたしかにと思わせるところが多い。

《第二次世界大戦において、日本はもちろん敗戦国ですが、アメリカもまた敗戦国なのです。真の勝者はスターリンです。<中略>日本もアメリカも、スターリンにしてやられた。この事実を抜きにして日米関係は何も見えてきません。ソ連という補助線を抜きに、この時期の日米関係は語れないのです。》

このように、「なるほど」と新たな視点をくれるのが、この本のいいところ。正直いえば「なんでそういえるのか?」という部分も多い。なぜ、この人が「嘘だらけ」と言う通説が今までまかり通ってきたのか? なぜこの著者だけが、その点を喝破できるのか?といったところは、けっこう疑問なのだけれど、歴史に関して新たなる視点をくれることは間違いない一冊。読みやすく編集されているので、気軽に読めるところもいい本でした。近代史は、多くの人がもっともっと知るべき題材が多いところ。こういった本がもっと出るといいなと思うのでした。

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2012年12月03日

自転車に乗れた

自転車写真.JPG2日の日曜日、6歳になったばかりの息子が自転車に乗れたので、今の気持ちを忘れないようにメモ。その気持ちというのは、これから子どもを「こう育てればいいんだな」と思えたちょっとした自信なのでした。

我が家から自転車で15分ほどのところの駒沢公園に「チリリン広場」という施設がある。ここはサイクリングコースになっていて、1時間100円で自転車を貸してくれて乗ることができる。緑豊かな周回コースで、中央部にはベンチがあって、ここに座って「おーい!」と手を振りながら子どもを見るのが好きだったから、僕はよくここに連れて行った。
子どもが3歳くらいから来ているから、もう3年くらい通っているのかな。

このチリリン広場では、補助輪付きの自転車と、補助輪なしの自転車を借りることができるのだけど、息子はずっと補助輪付きの自転車を選んでいた。
3歳のときはもちろん、4歳でも、5歳になっても補助輪付きに乗っていた。ここに来る子どもたちのなかには、4歳くらいでも補助輪なしで乗っている子もけっこういた。だから「あっち(補助輪なし)にする?」と、聞いたりもした。そして、息子もちょっと乗ってみたのだけど、うまく乗れないから、すぐに「やめた」といって乗らなかった。

ここで「もう5歳なんだから乗りな!」と言うこともできたんだけど、「ふーん。じゃ、いいんじゃない」と見ていることにした。
なんか、そうしようと思ったんですよね。
教育系の取材をしているときに「子どもは、やる気になったら勝手にやる」なんて話をよく聞いていたから、これを思い出してなるべく口出ししないようにしていた。「乗りたいっ!」って言ったら乗れるだろと見ていることにした。

そしたら5歳も終わりの頃、いつものように補助輪付きの自転車に乗った後、「今日は挑戦してみる」と、補助輪なしの自転車を持ってきた。見ていると、今まで通りうまくいかないのだけど、転んでも転んでも、自分でなんとかして頑張っている。「やめるー」って言うかと思っていたけど、ずっと頑張っていた。
帰り道「今日は、頑張ってたな」って言ったら喜んでいた。「また頑張る」と言うから「あと3回くらいやったら乗れるよ」と言ってやったら、もっと喜んでいた。

そして昨日、チリリン広場に行くと真っ先に補助輪なしを持って来た。このとき偶然、幼稚園の同じクラスの女の子が来ていて、彼女は補助輪なしですいすい乗っていた。
これで息子の「頑張るぞ」のスイッチが一段上に入ったんじゃないかな。
僕は、下の娘もいっしょに来ていたから、彼女と遊んでいて、息子をよく見ていなかった。見ていても、何もしないつもりだったんだけど、この何もしなかったのが、よかったのかな。ふと見ると「パパ!見て!」と。
そしたら、もうすいすいと乗っていたのでした。

ちょっと感動的でした。
子どもって、自分から「やりたい!」と思ったら、後は勝手にやるんだなぁ、やっぱり。勝手にできるんだと思う。
逆に「やりたい!」と思っていない子どもの尻をいくら引っぱたいたところで、やらないし、やれても子どもの自信にならないんだろう。
大人の役割というのは、自転車の乗り方を教えるというよりは、子どもが「僕もやってみたい」と思う環境を作ってやることと、出来たときに「よし!」と認めてやることなんだろうな。これはヨコミネ式の横峯先生がよく言っていたんだけど、本当に実感することができたね。

「なんで乗れたの?」と帰り道に聞いたら「パパが言ってた『前を見てろ』と『肩の力をぬけ』をやったよ」と。
へー。ちゃんと覚えていたんだ。そうそう、それだけ言ったんだよね。
というわけで、自転車に乗るという子どもにとっての最初の関門を、我が家の長男はこうしてくぐったのでした。

これから子どもが大きくなって、いろいろ壁にぶつかるだろう。でも、そのときは、この日のことを思い出して、やれる環境を作ってあげて、あとは出来るだけ手出しをしないで辛抱強く見ていてやろうと思う。やる気が湧くよう、できる子どもたちと遊ばせるとか、環境面は整えてあげても、できないことを尻を叩いてやらせたりしない。
どこまで実践できるかわからないけど、この日に立ち戻れば、なんかうまくいくんじゃないかなと、昨日、初めて乗れた自転車を見ていて思ったのでした。
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2012年12月02日

シーズン終了!

fc東京写真.JPG昨日の仙台戦で、今年のJリーグは終了。
我がFC東京は、14勝6分け14敗。10位という見事な中位でフィニッシュ。
天皇杯初優勝で幕開けて、ACLに初参戦したりといろいろ忙しかったし、ポポ監督1年目ということも勘案するなら、こんなもんか。この監督&主要メンツで連携深めて、来年飛躍よろしく!

来年は、ガンバと神戸が降格したので、京都帰省ついでの観戦がセレッソのみというのが、ちょっと辛い。遠征は、今年こそ甲府と、日帰り旅行気分で行けそうな清水と磐田と湘南あたりに行きたいなぁ。来シーズンから、息子が小学生になるので、チビの分の年間チケットもファミリーセットで申請済み。「お前も一人前のサポだ!」と、励まして息子と二人で遠征に行けたらなと思っています。
というわけで、今年もありがとう。来年もよろしくFC東京!
posted by okataco at 10:51 | TrackBack(0) | FC東京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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